2018年2月8日 shotom 0Comment

菜食で20年ほど過ごしていますが、菜食がよいのは、菜食が合っている人だけです。これだけ長くやっていると、私が菜食をよいものだと考えていると思われるのですが、実はそうでもなくて、私にはたまたま合っているから続けている、という感じです。

人間のからだを動かしているのはエネルギーです。生命を成長させるエネルギー源は太陽からやってきて、植物が成長して、それを動物が食べて成長し、やがて植物も動物も死を迎えると大地に還っていきます。その大きな循環の中に人間も入っています。

ですので、頑張って分けるとすると、地球に住む人間の選択肢としては、動物からエネルギーを得る、植物からエネルギーを得る、太陽からエネルギーを得る、という三つがあることになります。

どれでもいいと私は思いますし、普通は混ざっているので混ざってもよいと思います。

肉がよければ肉でもいいし、植物でも、光でも、元気になるならそれを取り入れればいい。

こんなに世界中の食べ物が手に入って、何でも食べることができる環境が整っている現代の日本に生きているということは、肉体をもつ人間としてどこまでもその可能性を追求できるということでもあります。

ただし、肉体はDNAの集積でもあるので、ある程度の方向性は存在します。

日本人なら、味噌と醤油、納豆などの大豆等発酵食品、海藻、魚、根菜類と葉物野菜、お米と少量の肉、という感じでしょう。もちろん、魚をあまり食べない地域などはありますが、おおむね、日本に住む人達の中には、このような食生活をして生きてきたDNAが入っているだろうと思います。

今、私たちが生きているということは、この食生活をして何代にも渡ってDNAが生き延びてきたということなので、それを食べることは理にかなっています。

人間が世界中を頻繁に移動するようになったり、大量の食べ物が国境を越えて輸送されるようになったのはこの50年ほどで、これは人間のDNAの歴史に比べたら本当に一瞬のような時間です。

ですので、DNAにとって、海外の食べ物を食べるということは、体験をしたこともないことだと思いますし、それが毎日のように続く日本の環境は、かなり挑戦的で実験的であるとも言えるでしょう。

もし人類が全て石橋をたたいて渡る人だったとしたら、このような挑戦はできなかったに違いありません。

私の菜食の遍歴、ひいては食べ物と人間の可能性に対する飽くなき探究のきっかけとなったのは、アメリカから帰ってきて仕事と家が決まるまでと田舎の祖母と暮らした半年間の間に文字通り毎日食べ続けた里芋の味噌汁とアジの開きと大根とほうれん草と海苔でした。

毎日毎日、私は里芋をむく係で、ひたすら里芋をむき続け、全く同じ味付けで全く同じ量の食事、たまに青菜が変わったり、なにかがプラスされたりしますが、基本的にはいつも全く同じ食事を食べ続けていました。

この食事を二ヶ月ほど続けて、たまに東京に行ったときに外食すると、体調も気分もがらりと変わるという発見がありました。

あまりにも同じものばかり食べているので、他のものを食べたときにその変化が顕著に表れるようになったのです。

これは大きな発見であると共に、面白い発見でもありました。

なんでも一口食べると、それが自分の体や精神にどんな影響を与えるかがその場でわかる。この感覚が後にスーパーフードを片っ端から試して自分に合うものを見つけていくときにとても役に立ちました。

それから医療気功を学ぶようになり菜食化しましたが基本的な方針は変わらず、探究を続けて、その間に何を食べたらいいかよく分からなくなってくると玄米、味噌汁、納豆と海苔、というベーシックな食事に戻るようにしていました。基本の食事を続けると、またそれ以外の食べ物がどのような影響を体や精神に与えているかが分かるようになるのです。

私は今のところ乳製品を食べる菜食ですが、この先どうなるかは自分でもわかりません。乳製品も摂らなくなって最終的にはなにも食べなくなるかもしれませんし、基本食に戻ることもあるかもしれません。私としては、元気なら光でも豆でもプロシュートでもなんでもいいかなと思っています。どの方向性に進むとしても、自分がよりクリアで力強くあるための選択を、日々続けていくことは確かなのです。

今回、7回に渡って体験と共に紹介した栄養素やスーパーフード、サプリメントの話が、少しでも皆さんのお役に立ったなら私にとっては最上の喜びです。私はこの何年かで数十種類のスーパーフードやサプリメント、新しいコンセプトの食品などを試してきて、その中でも特に価格的に妥当で素晴らしい効果が感じられ、またその効果が一回だけでなく繰り返し何度も継続的に現れたものばかりを紹介しています。

その中には、体に合うものもあるかもしれませんし、合わないものもあるかもしれません。それらをうまくより分けて、ある程度の論理性に従って選んでいけば、必ず自分に合った栄養バランスを見つけることができます。

「おいしいと感じるものが体にとって必要なものですか?」と聞かれることがあります。私も、それを試した時期がありました。しかし、ある程度までしか行きませんでした。すぐに感覚的選択と論理的思考とのミックスに戻しました。そのときの感覚だけでは、見失ってしまうものがある、と思います。ある程度まではいいのですが、最高の状態を毎日更新し続けるような感覚にはいたりませんでした。

ファスティングをすると、このことが特に顕著に表れました。三日、四日と固形物を摂らずに生活していくと、おいしいと感じるものが、体にとって必要なものとは限らない、ということがはっきりと分かるのです。

食べ物と感情には実は密接なつながりがあります。このことはまた別の機会に詳しく述べます。

栄養に関するある程度の知識を持ち、体の仕組みをほどよく理解し、個体(自分)の傾向をなんとなく把握していれば、どんな状況でも柔軟に対応してバランスを取ることができるようになります。

知識や理論的なことは端から端までがっつり学ぶのではなく、全体をゆるくして流れをつかむことを重視するとよい、ということもこの数年で学んだことの一つです。知識とは常に過去のものであり、あまりに過去にウェイトを載せると未来が限定されるからです。科学は20年も経つと「事実」が変化します。「科学的事実」と呼ばれるものほどあやふやなものはありません。

今この瞬間に創られている「今」は、この宇宙では初めて起きていることなのです。

ですから、「今」が自由であればあるほど、未来の可能性が広がるということになります。

巷には食や健康に関するたくさんの情報が溢れていて、一つ一つを読むとどれも本当のように思えます。その中で自分にとって必要なもの、自分の生命感を湧き上がらせるものを選ぶのは、最終的には自分の体感しかありません。

一口食べたときの細胞が喜ぶ感覚、体の中でなにかがむくむくと起き上がるような感じ、そのような感覚が得られるかどうかで判断していけば、自分のための食べ物は自然と決まっていきます。

そして、人間は食べ物からだけエネルギーを得ているわけではありません。エネルギーは、実にこの世の全てのものに満ち満ちています。それは、タオと呼べるものかもしれませんし、フォースと呼べるかもしれません。私たちはその全体性のエネルギーのただ中にいて、日々それらを取り入れ、また循環させながら生きています。

人間の可能性は、まだまだその端緒が開かれたばかりです。あらゆる可能性を秘めた人間が自由に生き、自由に可能性を探究できる時代に私たちは生きています。

私たち一人一人が自分の肉体や頭脳、意識、地球や月との関係、太陽、あらゆる要素を使って、この可能性を開花させることができます。

そうすることによって私たちの社会がより面白く、より平和で幸せなものになっていくのだと思います。