2018年3月8日 shotom 0Comment

人間は生来、集合的に生き、集合的に死んでいく生き物でした。そこには正しさは存在せず、生きるための方法だけがありました。

縄文時代の村には、中心に墓地があったと考えられています。これは、縄文人の生活の中心に、先祖があり、彼らの選択が今の自分たちを作っているという考え方が反映されているからでしょう。

縄文時代には王はおらず、今で言う民主制、もしくは合議制で集団がどのような方向性に進んでいくかが決まっていたと考えられています。その後弥生時代に入ってからは生活が変化し、より大きな集団として生活するようになり、リーダーとしての王が現れました。

ある集団の中で、誰かがリーダーであり続けるためには、その人をリーダーたらしめる証拠、裏打ちが必要です。しかし、リーダーであることを、たとえば誰よりも力が強いということを常に示し続けるのは現実的ではありません。

そこで、リーダーとしての”正統性”を示すことが必要となりました。最も強い者が王となり、その王が認めた者、正統性を認められた者が次の王となるという仕組みです。王は、正統性を作り上げるため、またその仕組みを強化するために、自らの子に王位を引き継ぐことによって、あるいは王冠や王権の象徴となるものを渡すことによって正統性が守られる、という考え方を広めました。

その正統性を発端として、”通念としての正しさ”が生まれてきます。

一つの王国があるとき、王が言うことを完全に正しいとしなければ、王が国を率いることはできません。そしてその王は正統な王でなくてはなりません。王が王として存在し、また次の王を選び続けるためには、正統であることを示し、なにが正しいかを決めなくてはなりません。

次第に、王の定めた正しさは法となり、その積み重ねが法典となり、今度は逆に法典にかなったものが正しいというように認識が変化していきます。

歴史的に王制をとった国は多く、王の時代はしばらく続きました。歴史上は古代ギリシャで紀元前800年ごろに民主制が始まったと言われていますが、その内容は民主的とはほど遠く、成人男性にかぎるなど依然として王制に近いものでした。この制度もやがて衆愚政治と呼ばれて衰退します。

日本の縄文時代やアボリジニ、北米のインディアンなど、王のいない地域もありました。がしかし、やがて他国の王などに制圧されて、世界中で王が国を治めるようになります。

王制は、非常に強固でしたが、時代と共に正統性が失われ、制度のほころびが出てきます。

17世紀、ヨーロッパを中心に民主制への移行の波が起こり、ついに世界各地で王制を倒すほどの力となりました。

しかし、民主制とはいっても議員を選ぶ代表民主制が主で、むしろ直接民主制は衆愚政治として遠ざけられました。

代表民主制は、王制の権力が分散したようなものですから、結局のところ王制から大きな変化は見られず、王が全てを決める代わりに、選ばれた代表の内の誰かがどこかで国を操っている、という明解さを欠いた状態が続いています。

直接民主制は、集合が大きくなればなるほど実行が難しくなると考えられていましたが、インターネットの普及で状況は一気に変わりました。一同に会することなく一人一人が同じ仕組みの中で一票を投じることができるようになったのです。

直接民主制のメリットは、私たちの未来を私たちが直接選べるということです。駄目な未来を選んだら私たちは滅びるので、どうやって良い未来を選ぶか必死で学ぶことになります。

国として対処すべき何かしらの問題が生じたとき、その分野の専門家からアイデアはいろいろ出てくると思います。そのアイデアを全部並べて、どれを実際にやっていくかを決めるのが国民全体であれば、それが最も妥当なものとなるでしょう。違う意見もあるでしょうが、生物としてはマジョリティが生き残ることが重要なので、その選択はマジョリティに任せるのが良いということになります。

直接民主制を選択し、マジョリティが集団の方向性を決めることができれば、少なくとも人間の尊厳は保たれるでしょう。個が判断をするので、そのよりどころは個を生みだした親となり、さらにその親と遡っていきます。先祖を敬う気持ちも自然に生まれることでしょう。

生物としてより自然な生き方ができるようになるとも言えます。

直接民主制を導入する上で、重要なことが一つあります。それは、わからないことをわからないという勇気を持つということです。たとえば直接民主制によって決める事柄が、複雑なものだったときに、分からないけどどちらかを選ぶ、ということは、人類の行く先をコインで決めるのと変わりません。

今の私たちが、嘘をつくのは良くないことだと考えるのは、倫理、つまり嘘をつくとそれが他の人に迷惑となって自分にも不都合が生じるので生きるという方向性から遠ざかるためです。

わからないことを分かると言ったり、わからないままにどちらか判断したり意見を言うことは、人間の行く先をより不確かなものにしてしまいます。ですからわからないときにはわからないと伝え、判断をしないということが当たり前であることが直接民主制においては重要です。

純粋な直接民主制が技術的にも導入できるということになると、王制の存在理由はなくなっていきます。

存在理由がなくなれば王権は力を失っていき、王の正統性も消滅します。

正統性が失われると、法がなくなり、正しさはなくなります。

法がなくなるというと無法地帯のように思えるかもしれませんがそうではありません。法も直接民主制によって決められ、その根拠となるのは法典ではなく判例ということになります。

人間が自分の心、これまで何万年もの間、DNAを受け継いで生きてきた肉体と精神に即した判断をさまざまな環境で下すことで、この先も人間が生き残る確率が高くなります。

つまり、かつて墓地を中心とした縄文的社会が現代的な形で復興するようなことが起きるのです。

私たちは、過去の適切な判断によってこれまで生きてきました。今この時代に生きている人は皆、先祖の正しい選択によって生を与えられてきているのです。生物にとって正しいとは、より生きることができるということです。私たちがより生きるということを生活の前提とする場合、正しさとは、先祖の選択であり、私たちが皆で決めることと一致するのです。

こうして、正しさは終焉を迎えました。正しいかどうかは問題ではなく、未来に向けての選択が人間を生かせれば良い、という本来の在り方に立ち返っていく始まりの時を私たちは体験しています。

王のいない世界、正しさのない世界がこれから始まります。隠れたマイノリティが人類の行く末をきめるのではなく、私たち全員が自信と責任をもって未来を選んでいく時代に入ったのです。